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到底消化しきれそうにない、魅力「INNOCENCE(イノセンス)」/2004年 日本

目次

 

あらすじ

時は2032年、日本。科学技術の超高度化により、脳神経ネットにデバイスを直接接続できる「電脳」化技術と、義手・義足の進化系である「義体」化技術が普及し一般化。脳とインターネットが直接つながり、生身の人間がある種マイノリティな存在の世界。

 

バトーは、公安9課にいた。公安9課は、複雑化・異常化するサイバー犯罪・テロ・暗殺等を取り締まる目的で内務省公安部内に設置された、攻性組織・防諜機関。パートナーが姿を消してからは、愛犬ガブリエル(バセット・ハウント)の世話を焼きながらも埋めきれない日々を、引き続き刑事として、淡々と送っていた。

 

そんな中、ロクス・ソルス社の少女型愛玩用ロボットが暴走し、所有者を惨殺する事件が起こる。バトーは現場で、所有者を惨殺したロボットの自殺(自壊)する場面に出くわす。「助けて、助けて」と口にしながら・・・。

 

ロボットに惨殺された被害者家族達は、ロクス・ソルス社との示談に早々に応じ、一様に口を閉ざしている。同社は暴走したロボットの全機体を回収、いかなる欠陥も存在しなかったとして暴走は「原因不明」と発表。だがその後、同社の出荷検査部長が惨殺される。バトーは自身の身を切りながら、現パートナーのトグサと共に手がかりをつかんでいく。

 

ロクス・ソルス社に隠された真相があると感じながらも、確固たる物証が挙げられないバトー達は、本社のある極東の択捉経済特区へ向かう。トグサのサポートを受けながら、単身ロクス・ソルス社に乗り込むバトー。そこで待ち受けていたものは・・・。

 

監督:押井 守

原作:士郎 正宗

士郎正宗攻殻機動隊の原作者。イノセンスは設定こそは原作に基づくも、概ねオリジナルストーリー。

 

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amazon Prime videoより

イノセンスは、1995年に公開された押井守監督のアニメーション映画「攻殻機動隊GHOST IN THE SHELL」の続編(2017年にハリウッドで実写映画化)。本作は、日本のアニメーション映画で初めて、カンヌ映画祭にノミネートされた(第57回)。

 

Recomend Points

そこら中にばらまかれているメッセージを、とにかく拾いたい。吸収したい。

いやあ、何と言ってもこれにつきる。

ストーリーもいい。少し退廃的な画のタッチもいい。サントラもいい。だが、多くの人々を惹きつけて離さないのは、押井監督がそこかしこにまぶしたメッセージを解き明かしたい、理解したい、という思わされるからだと思う。

 

それはもう、開始早々から提示される。

見逃してはいけない・聞き逃してはいけないと、本当に気が抜けない。もともと攻殻機動隊という原作自体が、示唆に富む作品(1980年代に未来がインターネット社会になることを示し、「電脳」という現在研究が進んでいるマイクロチップ的な発想をしている)であるが、さらに哲学的・人類科学的・文学的・芸術的な etc... 、様々な要素がちりばめられている。

 

開始約35秒で提示されるメッセージ。

「われわれの神々もわれわれの希望も、もはやただ科学的なものでしかないとすれば、われわれの愛もまた科学的であっていけないいわれがありましょうか。」

リラダン未来のイヴ

 

常に概念を揺さぶられる。

義体化が進み、脳とゴースト(心・精神・感情のような、自分が自分であるというような概念)が自分であることを位置づける世界。義体は乗り換えることができる。また人の意識をインプットしたロボット(AI的な)さえ存在する。

そうした時、「人」とは?「命」とは?脳のハッキングもできる。ゴーストだって仕込むことができる。本当に自分は「自分」なのか?では「人間の前段階としてカオスの中に生きる子どもは」、どういう位置づけになるのか?持ち合わせている概念がもろく崩れていく。

さて、どう考える?と。

 

そもそもなぜ人は人形を作るのか、という問いかけもある。「人間はなぜこうまでして人間の似姿を作るのか」?女児はなぜ人形遊びをしたがるのか?フィギュア遊びまで含めるとさらに単純ではなくなる。愛玩用の人形は古来から作られており、しかも人が憧れる姿を模して造られる。それはなぜか?生き物を愛でることとの違いは?

どう考える? 常に突きつけられる。

 

多くの人を惹きつける、あのフレーズ

特に多くの方々の関心を惹きつけているフレーズがある。それは、やっぱり気になりますよねと言いたくなるくらい、バトー達が択捉経済特区に降り立ってから繰り返し目にするもの。

生死去来 棚頭傀儡

一線断時 落落磊磊

(本作中より)

Webサーチしてみたら、本当にそれは多くの方々が興味を抱き、思考を巡らされている。沢山の方が解釈を書かれていた(フレーズだけで検索してもイノセンスの記事が上位表示される)。

 

特に参考にさせていただいたブログ

 

出典は、室町時代の能役者/能作者の世阿弥が書いた能楽論「花鏡(かきょう)」と書かれていることが多い(ただ、世阿弥臨済宗の僧・月菴宗光の偈文から引用した模様)。

「花鏡」は、発声方法から始まり演技論、演出論、稽古論などが展開される、猿楽(当時の能・狂言の呼び名)とはこうあるべし的なもの。初心忘るるべからず、とかも記されている。

 

能の歴史、猿楽の位置づけや世阿弥の凄さをさらっと紹介

 

そもそも世阿弥って?というと、室町時代に足利氏の庇護を受け能を大成させた人物。父・観阿弥がしていた物真似的な猿楽を発展させ「複式夢幻能」を生み出した。

 

「夢幻能」を調べたら、本作のストーリーにもリンクするような内容だったため、中でもイメージがつきやすかった定義を記載する。

※複式能は、シテ(主人公)が、前場後場に登場するものを指すよう

■「大辞林第3版」(三省堂)の定義

 

能の分類の一。普通、前後二場に分かれる。亡霊・神・精霊など、超自然的存在の化身(前ジテ)が旅人(ワキ)の前に現れて、人の身の上や、その地の故事を語り、自分こそはその人(神・精霊)であると述べて消え、後場で本体を現すという型の曲。多くワキの見た夢や幻という設定であるところから命名。 

 

■「世界大百科事典第2版」(株式会社平凡社)の定義

 

能の分類名。〈現在能〉と対立して能を二大別する。能を代表する形式で,初番目物の大半,二番目物のほとんどすべて,三番目物の多く,四番目物・五番目物の一部が夢幻能形式をとる。典型的夢幻能とは次のようなものである。

(1)超現実的存在の主人公(シテ。神,男女の霊,鬼畜の霊,物の精など)が,名所を訪れた旅人(ワキ。僧侶や勅使など)に,その地にまつわる物語や身の上を語るという筋立てをもつ。

(2)前後二場に分かれ,同一人物が前場(まえば)は現実の人間の姿(化身)で,後場(のちば)はありし日の姿や霊の姿(本体)で登場する。

  

 

 作中のフレーズ(生死去来~)は、「花鏡」の中で演技論的な『万能綰一心事(まんのうをいっしんにつなぐこと)』に属する。以下ざくっと概要紹介。

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冒頭は、『見所の批判に云はく、「せぬところが面白き」などいふことあり。これは、為手の秘するところの安心なり』から始まる。

観客から「何もしていないところが面白い」と言われる、これこそ演者が身につけるべき境地だと。

 

せぬところ申すは、その隙なり。このせぬ隙は何とて面白きぞと見るところ、これは、油断なく心をつなぐ性根なり。(中略)あらゆる品々の隙々に心を捨てずして、用心をもつ内心なり。この内心の感、外に匂ひて面白きなり

何もしていないところとは技と技の間で、その隙間が何故面白いかと考えると、踊りや歌、演技など、ありとあらゆる技と技の間につながりを持たせ、最大限の神経を注ぐ内なる心があるからだ。内なる心がにじみ出て観客を魅了すると。

 

かやうなれどもこの内心ありと、よそに見えては悪かるべし。もし見えば、それは態になるべし。(中略)無心の位にて、わが心をわれにも隠す安心にて、せぬ隙の前後をつなぐべし。これすなはち、万能を一心にてつなぐ感力なり

ただ、観客にその心の内が見えてはいけない。見えてしまったら、技は意図的に行った見せかけになる。無心で、迷いのない安らぎの境地で、技と技をつなげ。これが、あらゆるわざを内側の芯でつなぎ、見る者の心を動かす芸の力だ。

 

で、いよいよ。

「生死去来、棚頭傀儡、一線断時、落々磊々」。これは生死に輪廻する人間の有様をたとへなり。棚の上の作り物のあやつり、色々に見ゆれども、まことには動くものにあらず。あやつりたる糸の態度なり。この糸切れん時は、落ちくずれなんとの心なり

「生死去来、棚頭傀儡、一線断時、落々磊々」とは、生き死にで輪廻する人間の有様を例えたもの。棚の上から吊るされた操り人形は、動いたりするがそれ自体が動いているわけではない。操り糸があるからだ。糸が切れたら崩れ落ちるだろう、ということ。

 

申楽も色々の物まねは作り物なり。これを持つものは心なり。この心をば人に見ゆべからず。もしもし見えば、あやつりの糸の見えんがごとし。(中略)総じて即座に限るべからず。日々夜々、行住坐臥にこの心を忘れずして、定心につなぐべし。かやうに油断なく工夫せば、能いや増しになるべし

猿楽も作り物で、様々なわざを動かしつないでいるのは、心。その様子が見えてはいけない。見えてしまったら操り糸が見えるようなもの、絶対に見せてはいけない。これは舞台上だけではなく、朝から晩まで日常生活に置いても常に忘れることなく心得るべきこと。その様に油断なく工夫精進していけば、芸が益々輝きを増して行くことだろう。

という感じ。

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映画では、このフレーズで何を伝えようとしているのか?

電脳戦で攻撃を仕掛けている相手を制圧した、ロクス・ソルス社のからくりを暴いた、などストーリー的にシンプルに意味合いを付けることはできる。が、浅いと感じる。

 

解き明かしたい、理解したい、と思わせる見事な仕掛け。でも芯の部分にたどり着けない。つかんだと思って改めて振り返ってみると、その奥にある他の仕掛けに気づく。

 

これ自体が、押井監督が魅せる、研ぎ澄まされた「芸」なのかもしれない。